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1月 2nd, 2011

2016.9.21 仙台市・生活保護費過払い、支給漏れ問題

〈生活保護費〉仙台・泉区でも不適正処理

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 復興需要に陰りが見え始めた被災地でホームレス深刻化
 失業と当時に路上へ、「グレーゾーン」拡大も

 岩手日報20150405朝刊20面(社会)

 東日本大震災の被災地で、ホームレスの増加が指摘されている。復興事業や東京電力福島第1原発関連の職を求め全国から集まった人が、仕事がなくなると、住居も同時に失うためだ。支援者は「復興需要に陰りが見え始めており、路上生活に陥る人が今後急増する恐れがある」と危機感を募らせる。
 冷たい風が吹き付ける1月下旬、野宿者を支援するNPO法人「仙台夜まわりグループ」が仙台市の公園で炊き出しをした。約30人が温かいカレーをが「おいしいね」と味わい、白い息を吐きながら雑談を楽しんだ。
 40代男性は東北地方や東京都の建設会社の寮を転々とし「仕事がなくなると路上に戻る生活の繰り返し」。昨年10月に福島県郡山市の仕事が期限を迎え、仙台で路上生活へ。「冬の寒さはこたえる。仕事を探してまたどこかに住みたい」と語った。
 厚生労働省の概数調査によると、最新データがある2014年は公園や河川などで野宿する人が全国合計で7508人。行政支援施設などが増え、ここ数年は10%前後のペースで減っている。
 一方、仙台市は震災後の12年こそ作業員宿舎などが急増し前年比で33%減ったが、 13年が18%増の103人、14年は16%増の119人になった。岩手、宮城、福島の被災3県合計でも仙台市の増加分が大きく、14年は10%増の138人。内訳を見ると岩手、福島は微減だが、「各地で失業した人が仕事を求めて仙台に集中し、野宿する」(仙台市の人材派遣業者)といい、被災地全体での増加傾向がうかがえる。
 ホームレス増加の背景にあるのは、建設業の多重下請け構造だ。仙台夜まわりグループの今井誠二理事長(54)らによると、安定した住居のない人が全国各地で「復興工事や原発、除染作業で職がある」と声を掛けられ、雇用契約もあいまいなまま被災地の下請けや孫請けの会社に送り込まれている。
 仙台市によると13年にアンケート調査したホームレス45人のうち、30%近くが震災関連お仕事を求め市外から来ていた。また、ホームレスではないが、作業員宿舎に入っていたり、ネットカフェから通勤したりする人もいて、こうした「路上生活手前のグレーゾーン」の拡大も目立つ。
 建設業界は被災地から東京五輪を見据えた工事に軸足を移し始めており、今井理事長は「仕事がなくなり、次の職に移れないグレーゾーンの人たちが路上に放り出される」と警鐘を鳴らす。

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【Les sacrifiés de Fukushima】

フランス誌、Le Parisien(2/13付)に「福島の犠牲」という記事が掲載されました。

LES SACRIFIÉS DE FUKUSHIMA

http://www.leparisien.fr/magazine/grand-angle/japon-les-sacrifies-de-fukushima-13-02-2014-35874
19.php

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【2014.2.26 ZDF「福島の嘘」の続編放映】

ドイツZDFで「福島の嘘」の続編(30分版)が放映されました。

http://www.zdf.de/ZDFzoom/ZDFzoom-T%C3%A4uschen-tricksen-drohen-32073914.html

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【ロイター記事】

今まで国内のどのマスコミも深入りしてこなかった除染作業への違法派遣の実態を暴いた記事が実名入りでロイターから出ました。

http://graphics.thomsonreuters.com//13/12/FUKUSHIMA.pdf

関連記事の日本語版:
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYEA0705O20140108

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【クローズアップ2012:扶養厳格化、現実の壁 疎遠の子、援助拒否も】
 http://mainichi.jp/opinion/news/20120606ddm003040069000c.html

 毎日新聞 2012年06月06日 東京朝刊

 売れっ子お笑いコンビ「次長課長」の河本(こうもと)準一さんが、母親の生活保護受給を謝罪したことで注目を集めている親族間の扶養義務。この問題をきっかけに、生活保護自体の在り方が問われる一方、受給しにくくなるのではないかとの不安が広がっている。生活保護制度上の扶養義務はどこまで広がり、厳格化できるのか。厚生労働省は、受給者らの親族に扶養できない理由の説明を義務付ける方向だが、最前線を受け持つケースワーカーの不足など課題は多い。【野倉恵、遠藤拓】

 「男性はドアに背を向け、玄関の上がり口でうずくまっていて、黒い塊のように見えました。あの時の悲しみが、この騒ぎでかき消されたら残念です」。北九州市のケアマネジャー、花井美知子さん(72)は取材の電話にため息をついた。

 かつて扶養義務が注目を集めたのが、北九州市で05、06年に相次いだ生活保護を求める男性2人の孤独死だ。電気や水道を止められた八幡東区の男性が保護を繰り返し求めたが、別の世帯で暮らす子供の援助を受けるよう求められた。福祉事務所とはトラブル続き。05年1月、借家で死亡しているのを花井さんが見つけた。門司区では別の男性が子供に伴われて福祉事務所の窓口を訪ね、事情があって近く援助が受けられなくなると訴えた。それでもなお親族からの支援を求められ、申請書ももらえないまま06年に亡くなった。

 同市の福祉事務所は長年、親族が扶養できないか確認できるまで申請書を渡さない「水際作戦」をとっていた。市は誤りを認めて対応を改善。厚労省も07年、全国の担当者会議で、扶養義務を理由に申請書を渡さないなどの申請権侵害を戒め、今に至っている。

 民法は、夫婦は協力し扶助しなければならず、直系血族(親子、孫と祖父母など)と兄弟姉妹も互いに扶養義務があると規定している。それ以外でも、おじやおいなど3親等内の親族は家裁の決定を経れば扶養義務を負う。生活保護法もこれに準じている。

 だが、実際の運用は異なる。国が自治体に示している連絡文書では、未成年(未成熟)の子について両親は自分と同程度の生活を保障しなければならないとされているだけで、それ以外の親族間の扶養義務は、自らが社会的地位にふさわしい生活を確立した上で余裕があれば援助すべきだと解釈されている。

 今回の騒動は成人した子から親への扶養に当たり、「売れっ子芸人がそれに見合う扶養をしていなかった」という点が問題になった。ただ「地位にふさわしい生活」の捉え方に基準はない。ケースワーカーの間では、一定の年収や資産があっても住宅ローンや教育費がかさむと言われれば踏み込めないのが現実で「申請者の生活が困窮しているかで判断するしかない」との見方が定着している。

 経済的事情だけでなく、親族間の心理的抵抗感も壁の一つだ。首都圏で30年近く勤めた元ケースワーカーの男性は、何度か高額所得者の親族の保護申請に対応した。ある有名スポーツ選手は「子供時代に酒浸りの父親に殴られ続けた。昼夜なく働いた母なら援助するが、父はいやだ」と扶養を拒否。有名私大教授が「妻と母の折り合いが悪い」として母親の扶養を断った例もあったという。

 市民グループ「公的保障の会」を主宰するケースワーカー歴25年の奥森祥陽(よしはる)さん(京都府)は「不正受給は許されないが、民法上の扶養義務と援助できるかどうかは別問題。核家族化の中、私的扶養(民法が定める親族による扶養)を強いる流れは時代に合わない」と見ている。

 ◇政府、最前線なおざり 受給者ら、バッシングを懸念

 今回のようなケースの対応策として厚労省は4日、国家戦略会議に生活保護制度の見直し案を報告した。そこでは、親族に扶養義務を果たしてもらうための仕組みを打ち出している。これに付随して、小宮山洋子厚労相は扶養義務を果たさない親族に対し、理由を説明することを義務付けるよう法改正を検討すると表明している。

 この他、厚労省では、扶養可能な親族には必要に応じ、保護費の返還を求める方針だ。生活保護法は、家裁の決定を経れば資力のある扶養義務者から費用を取り戻すことができると想定しており、同省は近く、申し立て手続きのマニュアルを自治体に示し、活用を促すことにしている。

 しかし、長年変わらない扶養義務の枠組みと核家族化した現実との矛盾解消や、受給者増大に伴う現場の人員増強は進んでいない。

 ケースワーカー1人が受け持っているのは平均92被保護世帯(09年度)と国の基準(80世帯)を上回り、100世帯を超えている自治体も多い。西日本のケースワーカーは「人が足りず十分な訪問もできていないのが現状だ」と強調。親族調査の厳格化について「扶養可能なラインをどう判断し、誰がどう返還を求めるのか。具体的な基準もなく現場で使うのはきわめて難しいのでは」と疑問を呈する。

 一方、受給者や申請を予定している人たちは「扶養義務が強調されすぎると申請の抑制や取り下げ、保護の辞退につながりかねない」と懸念。先月30日に東京都内で記者会見を開いた受給者らは「バッシングが強まると、保護から抜け出すための就労もままならなくなる」と訴えた。

 吉永純・花園大教授(公的扶助論)は「親族から見放され、最後に福祉事務所の門をたたく人が大半だ」と指摘。「孤立死防止、就労支援、不正受給対策と現場の役割は重くなる一方だが、多くは2、3年で異動し人材が育ちにくい。親族調査の強化といった対症療法ではなく、ケースワーカーの質・量を高める根本対応が必要だ」と話している。

 ◇「親族の義務」重い日本 欧米は対象範囲を限定

 日本の扶養義務は他の先進国に比べて広く、厳しく捉えられている。そしてもう一つ大きく異なるのは、生活保護法で「扶養義務者による扶養は法による保護に優先されるべきである」と規定している点だ。このため、親族から援助があればその分が支給額から削減される。

 厚生労働省の資料は03年当時のものだが、それによると、イギリス、フランス、スウェーデンでは基本的に、扶養義務の範囲は夫婦もしくは未婚のカップルと未成年(未成熟)の子供に限定。扶養せねばならない子供の年齢は英が19歳未満、仏がおおむね25歳未満となっている。

 州によって異なるアメリカも、夫婦間と未成年の子供に対する扶養義務があるとされている点は欧州と共通。ただし、カリフォルニア州では成人した子にも親を扶養する義務がある。

 英国やスウェーデンには扶養が保護に優先するという考え方自体がなく、生活保護問題対策全国会議事務局長の小久保哲郎弁護士は「今回の(河本さんを巡る)騒ぎを英国人に話しても、何が問題なのか分からないだろう」と指摘している。

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【子ども貧国(3) 第1部 未来が泣いている】

東京新聞2011年1月4日付朝刊31面

「母に働かされているの」 救いの紙切れ

中学三年のミキの告白は、養護教諭の田中明子(49)にとって衝撃だった。「私、母親に働かされているの」。5月下旬の6時間目、保健室でミキの目に涙が浮かんでいた。

「金髪に、ひざ上丈のスカート」。4月に赴任したばかりの田中にとって、ミキは問題行動の目立つ不良少女の一人にすぎなかった。

保健室のソファで悪態ばかりついていた「生意気そうな自分勝手な女の子」が泣いている。「生みの親はいるけど、育ての親はおらん」。途切れ途切れに話すミキを、田中は抱き締めることしかできなかった。

ミキは母子家庭で育った。3歳の時、両親が離婚。ミキを連れて家を出た母はやがて水商売を始めた。

収入は常に不安定だった。ミキが小学五年になると、母は家に金を入れるよう言いつけた。「母さんが怖かった」。ミキは近くのおばちゃんに頼んで内職仕事を始めた。月2、3万円の収入に母は満足しなかった。中学に入学してからは新聞配達を二つの店で掛け持つようになった。

母親に取り上げられない“臨時収入”を得ようと、はやりのルーズソックスを万引きしては、格安で友だちに売ったこともある。その「不良仲間」たちもミキの生活苦のことは知らなかった。

「本当のことを言ったら、どん引きされる。友だちにだって話せない」。貧乏は、誰にも話せない悩み。孤独だった。

疲れ果てた心身には保健室のソファが最高の寝床。だが、田中が赴任した時、校長から聞かされたのは「保健室が不良のたまり場になっている」のひと言だけ。「教室には行きたくない」。ささくれだったミキの言葉に込められた意味を、読み取れずにいた。

「彼女は何かを抱えている」。田中の疑問を解くかぎは2ヶ月後、突然、訪れた。いつものようにふいに保健室に現れたミキは、母親に働かされていると涙ながらにうち明けた。「貧困でそこまで悩んでいる子がいるなんて、思いもよらなかった」と田中は言う。

告白から1ヶ月後、ミキは田中の勧めでスクールカウンセラーとの面談に応じた。面談を終えたミキに田中は児童相談所の連絡先を書いたメモを手渡した。「あなたの意思を尊重したい」

ミキの通報をきっかけに児童相談所の介入が始まり、ミキは母の元を去った。

なぜ、あの時、告白できたのか。本当の理由はミキ本人にもわからない。「苦しくて。たぶん誰かに聞いてほしかったんだと思う」

22歳になったミキは愛知県内の大学で児童福祉を学んでいる。「過去の自分と向き合いたかった」。講義や専門書に出てくる心に傷を負った子どもの症例が自分と重なる。「学べば学ぶほど自分が欠陥商品のように思えてくる」

不安を埋めてくれるのが、アルバイトで始めた障害者の支援活動だ。働く親に代わって障害児に寄り添う。子どもの笑顔に癒され、親の感謝の言葉に自信をもらう。「頼って、頼られている」(文中仮名)」

家族背景に目配り必要

子どもの問題行動には貧困が影を落とすが、高度経済成長を経た現代日本で、両者をつなぐ視点は薄まるばかりだ。法政大大学院の岩田美香教授(教育福祉論)は、1977年の「犯罪白書」が「少年非行の普遍化」を指摘して以来、原因を情緒発達など個人の資質に求めがちだと指摘する。貧困家庭の育児について「金銭的困窮だけでなく、親の時間的な余裕のなさが家族の孤立を招く」点に着目。病気や飲酒問題を抱える親もおり、子の世話が不十分になったり、親子関係がこじれたりしやすいことから、学校がソーシャルワーカーの活用などで「家族の背景にまで目配りする」ことが必要だと訴える。」

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【体重30キロ・所持90円…窮状救えず 大阪2女性遺体】
朝日新聞 2011年1月10日0時0分

大阪府豊中市のマンションの一室で女性2人の遺体が見つかった問題で、2人はこの部屋に住む姉(63)と妹(61)とみられることが9日、大阪府警の調べで分かった。姉の死因は心臓疾患とみられ、妹は不明だが、2人の胃には何も残っていなかった。行政などに相談しないまま生活に行き詰まり、病死や餓死した可能性が高い。2人が救われる道はなかったのか。

府警が2人の遺体を司法解剖したところ、ともに昨年12月22日ごろに死亡したと判明。2人の胃に内容物はなかった。身長147センチの姉の体重は37キロ、158センチの妹は30キロまでやせていた。

豊中市や府警によると、水道料は7月から滞納され、電気とガスは9月から止められた。ごみが散乱したマンションの一室に食べ物は残っておらず、2人は上着を4枚着込んでいた。妹名義の貯金通帳の残高は一昨年11月時点で11万円あったが、昨年6月でゼロに。居間の机にあった財布には90円しかなく、近くに1円玉が数枚落ちていたという。

マンションは大阪地裁の強制管理物件だったため、地裁の執行官が2週間に1度は訪問していたが、9月ごろから姉妹に会えなくなった。

一方、近所の人は11、12月ごろまで姉妹を見かけていた。車いすに乗った妹と、それを押す姉。2人とも服は汚れ、白髪が長く伸び、70代だと思っていた人もいる。うつむき加減で、あいさつにもはっきりした返事はなかった。「気さくな人」との証言もあるが、最後は近所づきあいもほとんどしていなかった。

姉妹の一室の玄関ドアには、執行官が市役所の相談窓口を訪れるように勧めた手紙が貼られていたが、それに応じた様子はない。

「お嬢様」。2人を知る人たちはこう口をそろえる。地方銀行の重役だった父は、土地やマンションなどを持つ資産家だったという。生活が傾き出すのは、父と母が相次いで亡くなった20年ほど前。2人だけで暮らしていたが、受け継いだ財産が逆に重くのしかかった。

「地代などの収入は税金の支払いに充てると聞いた」。10年ほど前、姉妹から土地を買った女性は証言する。当時姉妹が住んでいた実家を訪れると、割れた窓ガラスに粘着テープが貼ってあった。畳はぼろぼろで、室内はカビのにおいがした。

そのころ、姉妹は実家近くに最期を迎えるマンションを建てた。知人の男性(73)は「家賃収入で生計を立てようとしたのだろうが、建設時の借金でかえって困窮するきっかけになったのでは」とみる。その後、資金繰りに行き詰まり、空き室が目立つマンションは昨春までに裁判所に差し押さえられた。姉妹の収入は途絶えたとみられる。

近所の女性は昨年10月、姉からこう頼まれた。「ちょっとお金貸して。1万円」。「何に使うの」と聞くと、「食べ物を買うねん」と答えたという。この女性は「(姉妹は)人に対して心を開かず、相談もあまりしなかった」と振り返る。

親族の男性は悔しげに言った。「プライドが邪魔をして行政にも助けを求められなかったのだろうか……」

豊中市は9日午前、緊急の記者会見を開いた。

市によると、担当者が昨年12月27日、マンションを差し押さえ物件として管理していた地裁の執行官から姉妹について相談を受けた。2人は9月、マンション自宅の合鍵も管理していた執行官に「どうしていいか分からない」と訴えた。しかし、この日を最後に執行官も2人と接触できなくなったという。

姉妹は国民健康保険料や水道料金を滞納していたが、住民票には別の住所が記載され、市は連絡ができなかった。生活保護や介護サービスも申請していなかった。地域の民生委員も65歳以上の高齢者を中心に見回っており、一度も60代前半だった姉妹を訪ねたことはなかったという。

大東幹彦・市高齢介護課長は「執行官が訪問して手紙も入れるので、反応をもう少し待とうと判断した。結果として2人が亡くなったことは残念。どんな対応をすべきだったのか部内で検証したい」と話す。市は11日以降、警察、社会福祉協議会などと生活困難者らの支援を協議する。

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【マンションにやせ細った2女性遺体、姉妹か 大阪・豊中】
朝日新聞 2011年1月9日1時29分

8日午前10時ごろ、大阪府豊中市曽根西町2丁目のマンションの一室で、60歳ぐらいの女性2人が死亡しているのを警察官らが見つけた。大阪府警によると、女性2人に外傷や着衣の乱れはないものの、栄養失調のようにやせ細っており、餓死や病死した可能性があるという。死後20日以上たっているとみられ、府警が身元確認を進めている。

豊中署によると、この部屋は電気やガスが止められた状態で、リビングの机に置かれた財布には百円玉が数枚しかなかった。部屋や廊下には衣服やペットボトルなどが散乱していたという。玄関は施錠され、チェーン錠もかかっていた。2人は和室とリビングに倒れ、ほぼ同じ時期に亡くなったとみられる。

和室で亡くなっていた女性は身長158センチで、はんてんを着てマフラーを巻き、畳の上で仰向けになっていた。リビングの女性は身長147センチで、長袖シャツを着て床の上にうつぶせに倒れていた。警察官は大阪地裁の執行官と部屋を訪ね、遺体を見つけた。

マンションの住民によると、部屋には、このマンションの所有会社を経営する女性が姉妹で暮らしていたという。マンションは何らかの理由で大阪地裁の強制管理物件だったとみられる。ある住民は「会社の経営がうまくいっていないと聞いた」と話していた。別の住民は「昨年12月に近くの路上で2人が歩いているのを見た。2人暮らしで、年末から部屋の電気がついていないので気になっていた」と語った。

玄関前には車いすが置かれ、ドアには執行官から姉妹にあてた手紙が張られていた。12月28日付と1月6日付で、「電気、ガスも止まっているようなので、寒い年明けをどのように生活されていますか。心配しています」などと書かれ、市役所の相談窓口の連絡先が記載されていた。

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【39歳男性の餓死 「孤族の国」男たち—4】
朝日新聞 2010年12月30日22時35分

たたきの先の障子を開けた警察官が声をあげた。

「あっ」

まさか——。60代の家主の女性は怖くて家のなかをのぞく気になれない。

「やせている人ですか?」

警官から聞かれてけげんに思った。独居の借り主はがっちりした男性のはずだ。高校時代はラグビー部員だった。

月2万5千円の家賃が滞り始めて4カ月。消費者金融の取り立てもきていた。行方をくらましたと思っていた。

まだ39歳。死んでいるなんて思いもしなかった。

冷蔵庫は空。棚にしょうゆと油の瓶があるだけだった。医師の死体検案書に〈摂食の形跡無し〉と記載された。

その借家は、トタン張りの平屋建て。さびて赤茶けていた。師走の風に、玄関のサッシがカタカタと鳴る。

裏の借家の初老の女性は、男性と話したこともないという。真っ暗だった家で人知れず死んでいたと知ったときはふるえがとまらなかった。

「なるときはあんなになるのかと思って。餓死では死にきらん。餓死では」

この死が報じられた当時、家の前に来て涙を流す女性を見た。「『いい人だった』と聞いて、そんな人やったんやなって」と同情を寄せた。

昨年4月、北九州市門司区で起きた餓死事件。男性は、いま37歳の私と2歳しか違わない。健康面に問題を抱えていたわけではないという。前年11月まで働いてもいた。

そんな男性が、飢えて、死んだ。心象風景を探る取材を始めた。

■「たすけて」言い出せぬまま

餓死した39歳の男性が育った家は、借家から数百メートルの場所で床屋を営んでいた。

祖父母と両親、兄との6人暮らし。親族によると、父親は借金が原因で行方不明になった。祖父母が死に、兄は大学進学を機に家を出た。男性も県外で働いた時期があったが、実家に戻った。未婚で、母親が5年前に亡くなってからは一人暮らしだった。

仕事は不安定だった。専門学校を出て富山県の会社に就職。だが1年ほどで退社して福岡県内の会社に入り、2001年からは居酒屋などの飲食店を転々とした。少なくとも6店に勤めたが、いずれもアルバイトだった。

最後に勤めた居酒屋チェーン店を今年10月に訪ねた。人の入れ替わりが激しく、当時のスタッフはいなかった。当時の店長(32)は熊本市の系列店にいた。男性は10〜20代のアルバイトに交じって、調理場の仕事を黙々とこなしていたという。辞めた理由は借金。取り立てが来ると迷惑をかける、と自ら切り出した。

同じ時期に半年間、掛け持ちで働いた食堂では、「自分の店を持ちたい」と周囲に希望を語ることもあった。

無職で迎えた昨年の元日。男性を招いた家があった。保育園から一緒だった元同級生宅。その同級生の帰省に合わせて呼び、みんなで刺し身や煮物をつついた。

元同級生の母親(61)は振り返る。「ちょっとやせたなって思ったんよ。でも『恋でもしよる?』ってたわいのない話をして、いつもと変わらんようだった」

仕事の近況を尋ねたときは、働いてます、と答えていた。

昨年3月20日ごろ、男性から電話があった。

「おばちゃん、風邪ひいて何も食べてないんよ」

「ならお弁当でも作ってあげる」。もち米を使っておこわを作り、卵焼きを詰めて車で来た男性に渡した。

「あれが最後の食事やったんか……。助けて、と一言いってくれれば何かできたかもしれんのに。それが腹立たしくて」。涙声になった。

元同級生と男性は同じ専門学校に通い、同じ飲食店でアルバイトをした。陽気な元同級生は接客。物静かな男性は調理室。元同級生は、気に入られた客の誘いで東京の会社に就職した。以来、正社員として働き、妻子もできた。「何かにつけて得な人とそうでない人と、あるんかね」。しみじみと母親は言った。

この土地には、隣近所で助け合う心が残っていた。気さくなこの母親に接し、なぜ、との思いが強まった。

〈たすけて〉

平仮名で書いた紙の切れ端が入った封筒が男性の部屋に残されていた。

宛先に書かれていたのは母方の叔父(66)。駅に近いマンションで暮らしている。

「逃げたと思ってた。餓死とは意外やった。できるか? 40前の男が食えないまま閉じこもって死ぬなんて」

叔父の言葉は辛辣(しんらつ)だった。

「誰も悪くない。本人の責任」

男性の家族が借金問題を起こすたびに親族が尻ぬぐいをしてきたという。男性の収入は少なく、同居する母親の月8万円の年金と叔父らの資金援助が頼りだった。「完全なパラサイト」と断じた。

「もう、情けないよ……」

叔父は高卒で地元のセメント会社に就職。「粉まみれになってがんばった」と言う。「金を稼げるならなんちゅうことはなかった」。いまなら3Kと言われる職場だ。先輩後輩、社内の人間関係でつながっていた。簡単に辞めていく人間はいなかった。そうして定年まで勤めあげた。

叔父にとって、おいっ子は歯がゆい存在だったろう。

男一人なら生きていける、と母親が病死したあとは援助をやめた。

男性が飲食店を掛け持ちで働き始めたのはこの後だ。

食堂の時給680円、居酒屋800円。午前8時から日付が変わるまで働いて、月収は20万円に届くかどうか。

二つの店と自宅とはほぼ一本道でつながっている。車検が切れた軽自動車で単調な道のりを往復する日々、何を考えていただろう。

昨年1月、門司区役所に生活保護の相談に行っている。相談記録票には、飲食関係の正社員に限定して求職中と聞き取った内容の記載に続き、「相談結果の処理」の欄にこう書いてあった。

〈39歳、健康体であれば何か仕事はあるはずである〉

「幅広く探してみる」と男性は保護を申請せず帰った。

男性を追い込む直接のきっかけとなった借金の理由は取材ではわからなかった。督促状は丁寧にクリップで束ねられ、6社から計150万円に上った。家に5台も残されていた携帯電話も謎だった。

頼ったのは結局、親族。昨年2月に大阪にいる4歳上の兄に連絡して金銭的な支援を頼んでいる。叔父は兄からの電話で経緯を聞き、借金問題にはかかわらないように忠告したという。

その兄に電話で取材を申し込むと、仕事で多忙だから、と断られた。もう一度かけても答えは変わらず、心境を聞くことはかなわなかった。

未投函(とうかん)の叔父あての手紙。封筒の表書きがぴしっときれいな字で書かれているのに、〈たすけて〉の文字は弱々しかったという。

出すか、出すまいか。

命が尽きる寸前まで迷ったのではないか。

弱い自分をさらけ出し、助けにすがってまで生きる。生き延びたとして、その先に希望があるのか——。電気が切れ、真っ暗な借家で煩悶(はんもん)するやせ細った39歳を想像した。

叔父の言葉が、私の頭にこびりついている。

「すがるところが無くなった。だから、死んだ」

財布に残されていた現金は9円。叔父は、これもメッセージだと受け取った。

「食えん(9えん)」

菩提(ぼだい)寺のさい銭箱に投げ入れたという。

私もやってみた。1円玉4枚と5円玉1枚。軽い硬貨が乾いた音をたてて落ちた。

■救いの手にすがる難しさ

餓死した39歳の足跡をたどって見えてきたものは、孤立した働き盛りを支える「希望」の無さだった。

正社員を辞めた時期にバブルが崩壊。職を転々とした男性の生活は、母親の年金や親類の援助で成り立っていた。「自分の店を持ちたい」と周囲に語っていたが、実際には蓄えと呼べるものは無かったようだ。若いころ交際相手がいたが未婚のままで母親と2人で暮らし、その母親を亡くすと、孤立無援になった。

男性が最後に職を失ったのは、リーマン・ショックのあと。同じ時期に自動車工場を解雇された元同級生(41)は「ひとごとではない」とおびえていた。自分も親がいなかったら生活できなくなっていた、と。

男性には、支え、支えられる存在としての家族がいなかった。だがほかに助けを求める先は無かったか。

心配してたびたび様子を見にきていた家主、弁当を持たせた元同級生の母、生活保護の窓口……。すがってもいい、どこかで一言を絞り出してほしかった。(井上恵一朗)

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【55歳、軽自動車での最期 「孤族の国」男たち—1】
朝日新聞 2010年12月26日3時14分

駐車場に止めてあった軽自動車の中から男性の遺体が見つかったのは、6月25日のことだった。3カ月間、放置されていた車のドアミラーには、ツタのような植物が絡みついていた。

神奈川県逗子市の公園の一角。駐車場の前は県立高校、隣には保育所がある。毎日、高校生や親子連れら数百人もの人が車の前を行き来していた。だが、犬を散歩させていた近所の男性が「臭いがする」と通報するまで、警察や市に連絡はなかった。

後部座席に敷かれた布団で寝たまま、遺体はすぐに身元が分からないほど腐乱していた。DNA型鑑定で身元は特定できたが、遺体の引き取り手がおらず、逗子市が火葬して遺骨を預かっている。

佐藤正彦さん、享年55。なぜ、このような最期を迎えたのか。引き取り手のない「行旅(こうりょ)死亡人」として官報に記された以前の住所を訪ねた。

木製の窓枠がきしむ、2階建ての古いアパートだった。昔からの住人は、借金の取り立てが佐藤さんのところに来て、部屋を荒らしたのを覚えている。2001年ごろ、佐藤さんは荷物を残したまま、姿を消す。部屋の玄関に積まれたままのスポーツ新聞には、求人欄に印がつけられていた。

さらに、本籍地の秋田県北部へ。佐藤さんが育ったトタン張りの実家は窓が割れ、人は住んでいなかった。約10キロ離れた場所に住む姉(62)を探し当て、話を聞いた。4人きょうだいの末っ子だった佐藤さんは1970年に地元の中学を卒業するとすぐに上京し、働きはじめたという。地方の若者が職を求めて大量に都市に移り住んだ時期である。

その後、実家への連絡は途絶えた。親の葬儀にすら出なかった佐藤さんが出し抜けに姉の元に現れたのは、昨年の夏だった。事前の連絡もなく、東京で亡くなった兄の遺骨を携えていた。郷里での滞在は、わずか3日。菩提(ぼだい)寺で納骨を済ませ、再び軽自動車で帰っていった。

姉が仕事や住まいを尋ねても、決して答えることはなかった。

兄の勤務先だった都内の塗装店を訪ねると、佐藤さんの生前の姿がおぼろげに浮かび始めた。

上京後も4歳上の兄を頼り、時にお金も借りていたという。一つの職が長続きしない弟に困りながらも、兄は連絡がつくように携帯電話を買い与えていた。

「弟は上京した当初は国鉄関連の溶接工として働き、収入もよかった。でも目をけがして転職せざるを得なかったんです」。塗装店主は、そう兄から聞かされた。

その兄が昨年3月に亡くなると、佐藤さんはエアコンが壊れた軽自動車で、兄のお骨を郷里に届けに向かった。片道約700キロの道程、兄の骨と二人きりで、何を考え続けたのか。その胸中を知る人は、いない。

佐藤さんの生存が最後に確認できたのは、兄の死の約1年後の今年4月9日。神奈川県警によると、姉に電話をかけた記録が残っている。「ご飯を食べるお金にも困っている」。姉が「私も困っている」と答えると、電話は切れた。司法解剖の結果によると、軽自動車の後部座席で生涯を終えたのは、その直後。病死だった。

生活保護を受けて暮らす姉は「弟を迎えに行きたいけれども、逗子まで行くお金も力もない」と話した。県警はもうひとりいる姉にも連絡を取ったが、「縁が切れているので」との返事だった。

郷里に残る墓には、墓石がない。目印となるのは、佐藤さんが兄のために立てた卒塔婆(そとば)と、姉が今年の墓参りで並べたコップ酒や缶ジュースだけだ。佐藤さんの遺骨は今、そこにはなく、逗子市郊外の遺骨安置所に眠っている。

「終(つい)のすみか」となった軽自動車は、市役所が業者に頼み、処分をした。(中井大助)

■街のアパートで一人また一人

開け放しの共同玄関は、昼間でも暗い。目をこらすと、男物の靴ばかりが並んでいるのが見えた。靴を脱いで上がると、冷たく、湿ったような感触が足の裏に伝わる。

東京都北区の2階建てアパートの一室で6月、50代とみられる男性が遺体で見つかった。死後8カ月経っていた。

商店街の外れにあり、スピーカーは一日中、歳末福引の案内を流している。呼び込みをする八百屋の店先で、買い物客が世間話に興じる。

2階の廊下には、前日の雨漏りでできた水たまりがあった。その奥に、部屋がある。「今でも時々においが漏れてくる。いい気持ちはしないけど、もう慣れたよ」。案内してくれた隣の部屋の住人(63)がいう。

遺体の周囲には、食べ物のゴミや酒の空き缶、たばこの吸い殻が散乱していたという。部屋からは生活音もほとんどせず、人を避けるように暮らしていた。

このアパートでの孤独死は、今回が初めてではない。「ここに住んで20年だけど、記憶にあるのは4人くらいかな」。10年ほど前には、今回と同じ部屋で高齢の男性が亡くなった。開いたままのドアから寝ている足が見え、「暑いから開けてるのかな」と思っていたら、翌日になっても同じ格好だったという。

アパートが建ったのは昭和30年代、半世紀ほど前だという。そのころは家族連ればかり。共同台所を囲み、みな銭湯に通った。「改築して台所を中に作ってから、中のことがわかんなくなっちゃったね」と長年管理をしてきた男性(76)はいう。元々、管理人としてここに住んでいたが1年半前、転居した。「住んでれば気づいただろうけど」

隣のアパート兼店舗も、同じ頃に建てられた。ここでクリーニング屋を営む店主は振り返る。「昔はどちらのアパートも家族連ればかりだった。表で子どもが遊んでいてにぎやかだったよ」

単身男性ばかりの今、誰が住んでいるかすらわからない。店舗の上のアパートでも数年前、男性が孤独死し、数カ月後に見つかった。「すぐ上でも気づかないもんだね」と店主は天井を見上げた。

十数年前、近くに大型スーパーができ、通りの店は次々に姿を消した。店先で話しこむ客も減った。豊かになり、求められるものは変わった。

亡くなった男性は10年ほど前に入居したという。偽名だったため、当初は身元がわからず、「行旅死亡人」として、区が火葬した。その後、身元はわかったが、生前語っていた本籍地や年齢とは全く違っていた。

首都圏の大規模団地で11月上旬、死後3カ月以上経った男性(79)の遺体が見つかった。遺族に依頼された遺品整理会社「あんしんネット」の作業に同行した。

部屋に一歩入ると、防臭マスクを通してすら強烈な異臭が鼻を突く。昭和40年代の団地に典型的な2DKの間取り。ちゃぶ台には、食べかけのご飯やみそ汁がそのまま残っていた。

居間として使われていた南側の部屋が最期の場所だった。食事をしている途中に倒れ、そのまま亡くなっていた。床に広がるおがくずのような茶色い粉は、皮膚や体液が乾いて固まったものらしい。カレンダーには7月10日まで斜線が引かれていた。

第一発見者の長女(52)夫妻は、団地から車で1時間ほどのところに住んでいる。

男性は山形県出身。サラリーマンで、70歳まで現役で働いていたが、2年前に妻を亡くし、あまり出歩かなくなった。「けんかでも相手がいた方がいいな。一日口きかないの、つらいな」という言葉が、長女の耳に残っている。

それでも、同居の勧めにはなかなか応じず、ようやく説得し、家を改築しているところだった。「商売や引っ越しで忙しくて」。もっと早く連絡していれば、早く改築を始めていれば——。長女は後悔の言葉を重ねた。

10棟以上の建物に囲まれた公園で、日が暮れるまで、子どもたちの歓声が響く。スーパーや八百屋、医院まで併設されている。発見時、ポストには郵便物があふれ、テレビはつけっぱなしだったが、男性の死に気づいた人は誰もいなかった。

市民が当たり前の生活を営む場所の一角で、人知れず孤独死が発生する。そんな時代を、この国は迎えている。

管理事務所は、一人暮らしだということも把握していなかった。発見前日、隣人から「虫が増えた」と苦情が入ったが、ポストに「対処してほしい」と書いた紙を入れただけだった。

■苦しみの末路に目を向ける

何カ月も誰にも発見されない、孤独な死。団地や古いアパートがその現場となることが多いのは、一戸建てなどに入居できない中高年単身者の受け皿となっているからでもある。さらに、そこにも住めない人たちが、車や路上で暮らし、ひとり死んでいく。

彼らは生前、他人とのつながりを拒絶するように、閉じこもって暮らしていることが多い。では、自ら選んだ結果といえるのだろうか。

「あんしんネット」の石見良教さんは、最近、高齢者の部屋を片づける「福祉整理」に力を入れている。認知症や体力の低下でゴミを片づけられず、不衛生な状態で暮らす高齢者がいる。「助けを求めることもできない人たちに目を向けてほしい」という。

悲惨な孤独死が問題なのは迷惑だからではない。それが、孤独な人間の苦しみの末路だからだ。そこに目を向けることが、いま多くの人が抱える生きづらさを和らげる一歩にもなる。(仲村和代)

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毎日新聞2009年1月11日

仙台のNPOが夜回り

世界的な景気後退と雇用情勢の悪化が、東北最大の都市・仙台にも影響を及ぼしている。路上生活者を支援する仙台市のNPO法人「仙台夜まわりグループ」が7日に市内を巡回した結果、54人の路上生活者がおり、昨年7月の37人から増加傾向にあることを確認した。今井誠二理事長(48)は「本当に増えるのはこれから。今はインターネットカフェなどでしのいでいる人たちが、金が底を突いて街に出てくる」と危機感を募らせる。【鈴木一也】

 「こんばんはー。体の調子はどう?」

 7日午後8時過ぎ、JR仙台駅西口。今井理事長らスタッフとボランティアが、白い息を吐きながら路上生活者に声を掛けた。リンゴやゆで卵、インスタントみそ汁を配っていく。彼らがこの時間に来ることを知っている路上生活者が集まり、「いつも悪いね」と簡単な言葉を交わす。

 夜まわりグループは00年から、市内を夜間に巡回する「夜回り」活動や炊き出しで路上生活者の支援を続けている。数人のスタッフを、学生やサラリーマンなど大勢のボランティアが支えている。

 今井理事長によると、市内約15カ所で確認した路上生活者は、米国の証券大手リーマン・ブラザーズが経営破たんした昨年9月ごろから増え始め、10月1日には65人に。仙台駅前や追廻地区、勾当台公園などが特に多いという。

 厚生労働省のまとめでは、市内全域の路上生活者は04年の253人をピークに昨春まで徐々に減少していたが、調査時に会えず、カウントされていない路上生活者もいる。同グループは仙台以外にも多賀城や名取、白石市などに40人以上いると推測する。

 先月31日から今月5日に東京都の日比谷公園に設置された「年越し派遣村」には、予想を超える約500人の失業者らが訪れた。先月24日に夜まわりグループが行った炊き出しにも、新たに路上生活者となった「新顔」が多数集まったという。

 今月9日の夕方。仙台市青葉区の市福祉プラザに、カレーのにおいが立ちこめた。月1回の食事会。路上生活者約50人が列を作り、米9升があっという間になくなった。

 食事会に参加した男性(48)は、勤めていた会社が倒産した92年から、複数の派遣会社を転々とした。06年4月に自動車工場での仕事を最後に派遣契約が切れ、それ以来、仙台で路上生活を強いられている。

 「昔は探せばいろんな派遣の仕事が見つかったから、何とか食いつなげた。でも今はほとんど募集がないし、年も取り過ぎた」。求人への応募にも住所や連絡先、保証人などが必要となるため、今では職探しをあきらめてしまったという。

 路上生活を始めてから、夜まわりグループらNPOの支援を受ける日々が続く。「ボランティアさまさま。彼らがいないと食っていけない。早く何かしらの仕事と住むところを見つけないと」。焦りとあきらめの入り交じった表情で、深いため息をついた。

 今井理事長は「1人も路上死を出さないためにも、就労創出事業や職業訓練など、ボランティアだけではできない支援を行政と連携して進めていく必要がある」と話す。

 「明日来てよ、ラーメン食べられるから」。仙台駅前で初めて会った路上生活者に声を掛け、今井理事長は助けを求める路上生活者が待つ次の目的地へと向かっていった。
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アエラ2002年5月20日
「ホームレスの自立」

朝日新聞声2002年3月6日朝刊
「再起かけた彼ひっそり逝く」

朝日新聞声2000年8月27日朝刊
「ホームレスのAさん逝った」