当事者・元当事者の声
一部マスコミの報道や根拠のない先入観で、これまで「ホームレスは怠け者、自己責任」というレッテル貼りがされがちでしたが、ひとりひとりに出会い、事情を聞くと、決してそうではないことを知らされています。今の時代、誰もが生活に行き詰まり、路上に陥ってしまう危険性があるのです。その証左として、本人を特定できない形で幾人かの証言をここにご紹介します。
証言① 【50歳代男性】
誰だって自分で稼いで誰にも迷惑かけずに生活したいです。自分もこれまで一生懸命に働いて来ました。でも自分ひとりの力じゃどうにもならないこともあります。ずっと勤めて来た会社が業務縮小で一人解雇され、二人解雇され、いつ自分の番が来るか、気が気でなかったです。会社を縮小して移転することが決まった矢先に「辞めてくれ」と社長に言われたときは目の前が真っ暗になりました。昨年末(2010年)のことでした。家賃が払えないと泣きついて、なんとか今年(2011年)2月一杯までは事務所で寝泊まりしていいと言われたので、その間に必死で就職先を探したけれど、見つからず、そのうちに事務所にもいられなくなって、社用車で寝るようになりました。駐車場の周囲に民家があるので夜中はエンジンをかけっぱなしにはできません。寒くてもう我慢ができなくなったらエンジンをかけて暖房をつけて、しばらくしてまたエンジンを切っての繰り返しです。「ホームレスは働く気がない」と言う人もいるけれど、一度ハローワークに行ってどういう状態だかを見てほしいと思う。
証言② 【50歳代男性】
最近、カッターで手首を切りました。生きるのが嫌になって。公園で。けれど、血を見て怖くなってコンビニの電話から110番した。傷は浅くて、病院に行くほどでもないと言われて。でも、なかかな血が止まらなくてつらかった。夜眠れなくて、どうしようもない。小さな頃から厳格な父が怖くて、兄弟は皆それなりのところに勤めていい地位についているのに自分だけが落ちこぼれで。そんなプレッシャーから逃げ出したくて若い頃から全国を放浪してきた。自分が弱かったからなのかなあ。
証言③ 【60歳代男性】
若い頃から一生懸命にに働いて来た。厚生年金も受けている。でも妻が認知症気味になって、毎日殴られたり蹴られたりして体が痣だらけになった。自分の年金手帳も金も全部妻がどこかに隠してしまった。自分の年金が幾ら出ているのかさえわからない。「お前なんかろくでなしだ」と罵られ、思わず家を出て来てしまった。今は仙台で路上生活をしている。役所に相談に行ったら「家に帰れ」と言われた。家に帰ったら同じことの繰り返しだろう。どうしていいかわからない。
(この方は2011年2月17日時点で、現在進行形で、相談にのっています。)
証言④ 【50歳代男性】
自分は中学卒業をして、生まれた町で運送関係の仕事をずっと続けて来た。普通二種の免許まで取ってタクシーの運転手までしたくらい。でも小さな町では稼ぎにならなくて、思い切って東京に行った。ところが住所がないもんで東京では仕事が見つからなかった。時々日雇いの仕事が入る以外は、恥ずかしいけれど路上生活をしていた。その間、東京の福祉の助けで支援センターに入居したり、アパートに入ったりしたけれど、長続きはしなかった。ひとりぼっちの辛さや先行きどうなるかが不安だったし、人付き合いが苦手で酒の量が増えてね。いつの間にか飲まずにいられなくなってしまった。飲むのは主にウイスキーや焼酎。アルコール度数が高くて少量でも酔えるやつ。自分でも飲んだらやめられないことはよくわかっている。これじゃあ自分はだめになってしまうと思って、東京で医者にかかったんだ。福祉でアパートにも入ったことがある。でも、そこでも人間関係や孤独に耐えられなくなって、故郷に戻ろうと思って東京から歩いて実家の宮城県に戻ったけれど、やっぱり何十年って不義理していたからいられなくて。それで仙台に来て、路上生活をしていたってわけ。寒くてひもじくて、そのうち右手の指が固まったみたいに麻痺してきて、字も書けなくなってきて、夜まわりさんに相談して 部屋に入ることができた。これが最後だと思って、アルコールを断とうと思う。手の指も元に戻ればいいなあ。落ち着いたら母親とも仲直りしたいんだ。
証言⑤ 【60歳代男性】
中学を卒業して、地元の北海道で左官の丁稚に出ました。兄弟が多くて飯が食えなくて上の学校に行くなんて考えられなかった。15歳でしょう、どやされたり殴られたりで修行がつらくて。給料だってほどんどもらえなかった。でも寝る場所があって飯が食えるだけ有り難いって思っていた。でも、あまりに親方がきつくて3年くらいで耐えきれなくなって、東京に逃げるように行ったんだ。そしたら上野駅で人夫出しに声をかけられて、それからずっと飯場生活をしてきた。現場の穴掘り作業だよ。東京の地下鉄の穴堀はほとんどやったよ。でも年をとるとどこからも声がかからなくなって、横浜で路上生活をするようになった。今から4年前、鶴見で声をかけられて、部屋に入れてくれるって言うからついて行ったらそれが酷くてね。部屋に何人も入れられて、食事も粗末だったから、これじゃあやっていけないと思って、神奈川から北に向かった。仙台まで来て公園のベンチで寝泊まりしていたら、炊き出しっていうのがあると聞いて、それで夜まわりグループと知り合った。右目が見えにくくてね、長年の現場仕事で体もきついし、何とか元気になって仕事をしたいと思う。
証言⑥ 【50歳代男性】
これまで本当に一生懸命働いて来たんです。詳しいことはもういいじゃないですか。そう、調理関係、居酒屋、運送会社が長いかな。でも40歳代の時に無理がたたって脊椎の骨が歪んで神経を圧迫するようになってね、医者は、生まれつきの骨の異常で、長年仕事で酷使したからそうなったと言われた。運送の積み降ろしって半端じゃないから。首や腰に来るからね。脊椎には曲がった骨を矯正するセラミックが今も入っている。でも働かなきゃ食って行けないから車上生活をしながら警備会社で働いた。立ちっぱなしの仕事は体にきつくて、仕事が終わって寝るのは車の狭い運転席で、やがて車検も切れて、車を処分せざるを得なかった。それまで蓄えた金でネットカフェで過ごしたけれど、金も尽きて、どうしようもなくなって駅周辺で路上生活をしていた。仙台夜まわりグループの活動を知って、何とか住まいと体の治療をしたいとお願いしたんだ。生活のために借りた借金もあるし、何とかそれも解決していきたいと思う。
証言⑦ 【40歳代男性】
学校ではずっといじめられていた。勉強ができなくてね。「バカだバカだ」って。学校は嫌いだった。これまでたくさん仕事をしたけれど、みんな解雇された。自分で辞めようと思ったことはなかったけれど、期間が終わったとか仕事の能力がないという理由ばかりだった。10回では収まりきれないくらい派遣切り・雇用止めにあった。寮付きの仕事ばかりだったから、仕事を失うと住まいもなくなってしまうので、その度に必死に次の仕事を探して来た。これまではそれで何とかやってきたけれど、二三年前から全く仕事がみつからずに、どうしようもなくなってしまった。もう死んでしまおうと思って、死ぬ前に津軽海峡と弘前城を見ようと思い、手持ちで青森に行った。金がなくなったから仙台で死のうと青森から仙台に歩いてやってきた。夜まわりグループの炊き出しで相談して、部屋に入る事ができた。足を痛めているので治療をして、今度はちゃんと部屋を借りて、安定性のある仕事をしようと思うようになってきている。
証言⑧ 【60歳代男性】
洞穴で暮すってどんな気持ちかわかる?場所は言えないけど何年も川沿いの洞穴で暮していたんだ。冬なんて凍えそうに寒かった。足先がじんじんしてね。
俺は中学を卒業して、仙台に来たんだ。仕事は好きだったよ。鉄筋関係の仕事でね。鉄筋工で40年以上働いた。でも、60才のときにもういらないって、突然会社を解雇された。その後必死で仕事を探したけれど、年を聞かれたらみんな断られた。洞穴に人がいるって聞いて夜まわりグループの人が探し当ててくれてね。ちゃんと住所を設定したら年金が出るってことがわかって、一緒に手続きをしてもらった。厚生年金とか国民年金とか手続きも仕組みもわからないんだから、そんな人たち結構いると思うんだ。年金の掛け金を取るだけじゃなくて支給することもわかりやすく教えてほしいと思う。
証言⑨ 【30歳代男性】
生まれた環境を言い訳にしてはいけないと思っている。でも、父も母もずっと生活のために懸命に働いて、だから僕たち子どものことには放りっぱなしだった。家族でどこかに遊びにいくなんて一度もなかった。だけど、それは仕方のないことだと思っている。生きるには稼がなくちゃいけないから。学校を卒業して親元を離れて一所懸命働いて来たけれど同居していた兄弟が病気になってそれを支えるために派遣・派遣を続けて来た。でも職場での人間関係とかいろんなことで疲れてしまって。持ち金をもって死のうと思って電車に乗った。東北は始めてだったけれど青森駅に着いて自殺しようと川に飛び込んだ。でも凍えるように寒くて。死ねない自分が情けなくて切なくて。仙台駅に着いたのはどうしてなのか自分でもわからない。公園で寒さを凌いで、このまま餓死したらいいと思っていたら夜まわりグループの夜まわり活動に出会った。可能性はたくさんあるからできるだけのことをしてから死ねばいいって言われて、死のうと思って100円ショップで買った出刃包丁を夜まわりさんに預けた。やり直しができるなら、やるだけやってみようと今では思うようになっている。生きることって何が楽しいのかが小さい頃からいまだにわからない。これから生きる意味を見つけたい。