当事者たちの声・証言
当事者たちの声
証言36【30才代男性】
実家は代々酒の卸売店を営んでいました。父を手伝い、将来は、兄と共に店を引き継ぐ予定でした。父も、これで一安心だと言っていました。ところが、新型コロナウイルス感染症のために飲食業界がほとんど休業状態となって、酒の販売もほとんどストップしてしまい、個人商店はひとたまりもありませんでした。店は傾き、倒産してしまいました。私も居場所がなくなり、家を出ることになってしまいました。こんなはずではなかったのに。
証言35【20才代男性】
新型コロナウイルス感染症のおかげで飲食業界は大ダメージだった。自分もそれなりに必死に働いて、頑張って頑張って店の黒服までなったのだけれど、お客さんが全然こなければ話にならない。給与が全く出ずに、去年(2020年) の3月に突然自宅待機を言い渡されてしまった。そこから先は悪循環だった。金はないし、家賃は払えないし、生活はできないしで、アパートの部屋を飛び出して路上生活をするしかなかった。店の女の子たちは路上生活するわけにいかないから罹患者が少ない地方の店に移ったとか、闇営業している店で働いているとかいう噂は聞くけれど、正確なところはわからない。俺たちにも国の支援があるのだろうか。国のやることはなんだかスピードが遅すぎるような気がする。
証言34【50才代男性】
東京で割烹料理店の責任者として働いていましたが、コロナ禍のおかげで店が傾き、自ら職を辞して、ツテを頼りに仙台に来ました。仙台でもコロナ禍は一緒でした。おかげで、職は失うわ、住まいもないわで、途方に暮れてしまいました。なんとか今は部屋を確保し、再就職先を見つけているところです。
証言33【40才代男性】
最初にパチンコ屋に行った時に、ビギナーズラックで大当たりして、それからスロットにハマってしまいました。親父の工務店で働いていましたが、仕事の途中でもスロットに行ってしまい、大目玉を食うこともありました。スロットで作った多額の借金も親父に払ってもらいました。ある日、親父に内緒で親父の名前で取引先から金を借り、それがバレて勘当になりました。それが原因かどうかわかりませんが、親父の工務店はしばらくして倒産しました。路上生活を経て、なんとか部屋に落ち着くことができましたが、いまだにスロットの魅力に負けて、いってしまいます。知人、友人からも金を借り続け、これからどうなるのか、とても不安です。やめられるものならやめたいですが、どうしても行きたくて仕方がない衝動に勝てないでいます。
証言32【30才代男性】
幼い頃から両親がパチンコ屋に毎日行っていて、学校から帰ると小銭が置いてあって、自分でご飯を買って食べるという生活がずっと続いていました。そういうふうになりたくないと決めていましたが、結局就職した後、スロットにはまってしまって、自分の意思では止められなくなりました。散々借金を作り、逃げるようにアパートの部屋を出ました。路上生活者きつかったです。その後、アパートに入り、スロットに行くことも我慢できるようになったけれど、スロットに行きたいという気持ちがなくならない中、毎日過ごしています。とても辛いです。
証言31【20才代女性】
高校は中退しました。両親が離婚して、私と母と姉の3人暮らしでした。母が精神的に不安定になってしまい、私と姉とで働いて家計を支えました。姉が結婚をして、私と母との二人暮らしの中で、私も母も精神的に不安定になって諍いが絶えず、家を出ました。その後は、派遣で工場での仕事をしましたが、雇用止めのたびに次の仕事を必死に探しました。ネットカフェでなんとか凌ぎましたが、お金が底を尽き、SNSを通じて知り合った知人の紹介で、HELP!みやぎに相談しました。今は仙台夜まわりグループが管理しているお部屋でやり直しをしているところです。体も心も安定させて、仕事を見つけて自律をしたいです。
証言30【30才代男性】
北海道で生まれ育った。高校を卒業したあとに、アルバイトや派遣、コンビニの仕事をずっとがんばって来た。コンビニの店長までして、お金もちょっと貯まった。ずっとがんばって来て、心にぽっかり穴が開いたようになって、しばらく何もする気も起きなかった。ふらっと北海道を出て南下し、仙台に来た。駅前のサウナに二週間くらい泊まって、これから何をしようか考えていた矢先に、財布の入った鞄を盗まれてしまった。財布には何十万円も入っていて、どうしていいかわからなくなり、ネットで検索した仙台夜まわりグループさんの年末年始支援活動に行った。2019年初めに民医連さんの医療支援で血圧を計ってもらったら、上が200超え、下も100を超えていた。元々腎臓が悪くて薬を飲んでいたんだけれど、薬は盗まれた鞄に入っていた。薬が切れてから小便がなかなか出ないことが続いて、顔も浮腫んで、最悪の体調だった。仙台夜まわりグループさんに居所確保支援をしてもらって、部屋に入って病院受診したら、即入院と言われた。治療した途端に6ℓも小便が出た。医者から、「あんた命拾いしたよ」と言われた。体調が整ったら、コンビニで仕事を始めようと思っている。
証言29【40才代男性】
関西で生まれ育ちました。中学卒業後は、もっぱら現場仕事をしてきました。足場の手元、鉄筋工、何でもやった。2011年の東日本大震災後、復興関連の仕事があるということで東北に来ました。震災で半壊や全壊した建物の解体が主な仕事でした。解体工事が一段落して、除染の仕事があるということで、飯館や南相馬で除染作業をしました。その時は寮生活だったけれど、寮は何人もが雑魚寝状態で、プライバシーも何もない。みんなイライラしていて、ちょっとのことで腹を立てトラブルになるんだ。同じ部屋の人たちと関係が悪くなって、何度も暴力を振るわれるようになって、命の危機さえ感じて警察に飛び込んだんだ。寮には、関西や関東から仕事のために派遣された人たちがたくさんいた。自分は、警察を通じて支援団体につながって、何とか住まいを確保できたけれど、他の連中はどうしているだろう。
証言28【20才代男性】
3才の頃に両親が離婚しました。兄と共に、母に引き取られたので、父の顔は覚えていません。僕が小学低学年の時に、母がナルコレプシーという難病にかかりました。普通に生活していても、突然意識を失って倒れてしまう脳の病気でした。いつ意識を失うかわからないので、小さな頃から母の様子を気にして育ちました。両親は、元々周囲の反対を押し切って駆け落ちしたようで、親戚との付き合いもなく、頼りにできる人はいませんでした。24時間つきっきりで母の様子を気にしながら、中学卒業後、派遣やコンビニの仕事をしました。兄は、10年近く前に、東京に仕事に出かけたっきり行方知らずです。そんなある時、母が夜中にトイレに立った際に、突然意識を失い、頭を打って救急搬送されてしまいました。脳挫傷という診断でした。それをきっかけに、母は施設に入所しました。でも、自分は、これまで母の看病中心の人生だったので、自分自身の生活を立て直す気力がなく、その後、住まい失い、路上生活を余儀なくされてしまったのです。
証言27【60才代男性】
東北の出身です。高校を卒業したあと、地元に就職先があまりないから、関東の会社で働いたんだ。そこを辞めてから、自衛隊、トラックの運転手、パン製造、パンチンコ店など食うためになんでもやった。そりゃあ一生懸命に働いたよ。でも気がついたら年を取って、年齢ではじかれて雇ってもらえなくなって、それまでは寮生活が長かったから住むとところを失って、結局路上生活になってしまった。寮付きの仕事って難しいね。来月いっぱいで契約が切れますって言われたら、仕事も寮も突然失ってしまうってことだ。俺の場合、年金を掛けていたから60才の時に貰えるようになった。でも月額6万円じゃあアパート入るにも金が足りない。敷金や礼金なんかで20万円近くかかるもんなあ。これまで路上生活しながら年金でやりくりしてきたけれど、ここに来て体がしんどくなってね。仙台夜まわりグループが支援してくれて部屋に入ることができて、本当に助かった。布団で横になって寝るなんてここ数年したことがなかったからね。一生懸命働いて、この歳になってこんな苦労をするとは夢にも思わなかったよ。年金で食えないっていうんだからなあ。これまでの職場で、俺みたいのがたくさんいたし、今でもいるはずだよ。一体日本の国はどうなっていくのかなあ。
証言26【30才代男性】
自分の場合は、借金が問題でした。元々自分は関西出身で、高校卒業後、関東の工場に就職しました。そこを辞めて一旦故郷に戻って、また、関東で別の就職先で働いたのですが、人間関係が原因でそこも辞めました。働くことは好きなんです。でも、そのあとは、派遣の仕事しかなくて、ずっと派遣社員で食いつないできました。生活費が足りなくてちょこちょこ消費者ローンでお金を借りていたのですが、それが積もりに積もって、首が回らなくなって、職場にも請求がきたりして、寮を出て、あてもなく仙台に来たんです。最初はネットカフェで凌いだけれど、結局、路上生活を余儀なくされてしまいました。なんとか借金を整理して、働きたいのです。
証言25【40才代男性】
ここに入居して、ボランティア活動やスタッフの方々との面談等を通して、一番強く感じている事、それはスタッフの方全員が、常に一人の人間として接して下さる事です。見下したり、上から目線で応対されたことは、一度として無く、劣等感、卑屈感を持つこと無く、伸び伸びと生活させていただけることが何よりの喜びです。ホームレスになるきっかけでもあった、サラ金の問題も「法テラス」を紹介してもらい、約1年を要しましたが、最近、全て解決して貰い、一切の懸念も無くなりました。公営住宅に当選することのみが現在の望みです。どんな境遇になっても、決して絶望せず、自力でどうにもならない時は、思い切って周囲に助けを求め、身を委ねることも必要であることを、改めて思い知らされた気持ちで、今日一日をしっかり生きようと、心がけている現在です。
証言24 【60才代男性】
大学を卒業してからずっと薬の卸会社で真面目に勤めました。定年退職後も警備員をしたりして、働くのは好きだった。自分の問題は、パチンコ。働いていた頃からそうだったけれど、金が手元にあるだけパチンコで使い果たしてしまう。それが原因で離婚し、子どもとも離ればなれになってしまった。わかっているけれどやめられないんです。今は、住むところを定められず、車の中で生活をしています。ギャンブル依存ではないか、と指摘されて、自分でもそうかもしれないと思う。何とかやり直しをしたいんです。
証言23 【40才代男性】
妹と二人兄妹だった。母親は小さい頃に亡くなりました。父親と三人家族だったけど、父は酒浸りで、酔っぱらって毎晩自分と妹を殴り続けた。食べ物もなくて、小さい頃からひもじい時に、食べ物を万引きして妹と一緒に食べた。見かねた叔父さんが父親をアルコールの病院に入院させて、自分たち兄妹を引き取ってくれた。父は今でもその病院に入院している。学校では、勉強が全然わからなくて、成績はいつも一番下だった。叔父さんの所にもいづらくなって、中学校を卒業した後、叔父さんの家を出て、いろいろな仕事をして、何とか自分一人で生きて来たけれど、仕事が途絶えて、ひもじくてひもじくて食べ物を万引きして、刑務所に入った。そんなことを何度も繰り返して、結局ホームレスになって、夜まわりグループさんのアパートでやり直しをしている最中です。今回、役所で調べてもらったら、知能指数が一般の人よりも低いと言われて、手帳を交付してもらった。これからは、自分にできる仕事を見つけて、もう万引きしなくてもいい生活を送って行きたい。
証言22 【50才代男性】
若い頃から調理師一筋の人生だった。料理人としてのプライドもあった。仕事も一生懸命やってきた。この年ですでに年金の支払い期間は満たしているんだ。年金だけはずっと掛けててきたからね。でもあと10年たたないと年金はもらえない。女房と離婚してから何だか全てが空しくなってしまった。男は駄目だね。ここのところはガス欠でエンジンのかからない車の中で寝泊まりしていた。冬の車中の寒さは半端ないよ。車自体が凍るんだ。身体の震えが止まらなくて凍死するんだろうなと思ったけど、このまま死ねないと思い直して、ヒッチハイクで仙台市に辿り着いて、仙台夜まわりグループの相談センターに駆け込んだんだ。頼れる血縁者も知人もいなかったし、役所に行っても埒が明かないし、俺みたいな人たちは結局死ぬしかない、という世の中なのかなあ。
証言21 【30才代男性】
2歳の頃から祖父母に育てられた。両親と妹がいることは知らされていたが一度も会ったことがない。高校に入学したけれど、祖父母の負担になると思って中退した。その後は、飲食関係や土木関係の仕事を遮二無二やってきた。祖父母が亡くなった後は、天涯孤独で一人で生きてきた。その頃から一日10回発作が起きて失神するようになった。てんかんと診断されて仕事も長続きしなかった。路上生活に陥ってお腹が減って何度か万引きをして捕まったけれど、警官も同情してくれて二度とするなよって釈放してくれたこともあった。生まれた環境を言い訳にしたくないけれど、地を這うように生きてきた自分の人生って何だったのか。
証言20 【50才代男性】
若い頃から長い間、漁船の船員をやってきた。陸に上がってからも一生懸命働いた。でも気がついたら生活に行き詰まって、友人宅に世話になっていたけれど、居づらくて仙台市にやってきた。仕事があるかもしれないと思ったけれど甘かったね。
年金を調べたら、掛けた期間が5年分足りないと言われた。船員を真面目にやったからよっぽど貰えるみたいだけれど、年金事務所の人に「惜しかったね」と言われたよ。
両親も妹も亡くなって、天涯孤独になってしまったから、誰にも相談する事ができず、頼れず、そりゃあ不安だった。結婚もしなかったからね。ひとりぼっちは本当につらいよ。世の中から見捨てられたように感じるんだ。
証言19 【20才代男性】
小さい頃から父親に殴られて育ちました。6人兄妹の長男の自分だけが標的にされた。小・中学時代からいじめにあい、劣等感に苛まれるようになって、人前でしゃべれなくなりました。高校を卒業して資格を取って就職した後も人間関係で辞めることの繰り返しで、仙台に来て、路上生活をした後、行政の施設に入って就職したけれど、やっぱり人との関係がつくれなくて、しんどくなって会社を辞めてしまいました。性格的な問題なのか、治療が必要なのか、時間をかけてきちんと調べてもらいたい。これまで明日の仕事、次の日の仕事という一杯一杯のところで生きて来て、自分が抱えている問題をきちんと見つめ直す余裕などなかったから。
証言18 【40才代男性】
とにかく仙台の路上は寒かった。死にそうなくらい寒かった。もう今年の冬は生きて越せないと思った。仙台夜まわりグループさんの管理する部屋に入らせてもらって、久しぶりに布団の上で寝れることの有り難さを感じている。大学まで卒業して何やっているんだと言われるかもしれないけれど、自分は自分なりに精一杯やってきたんです。タバコも酒も賭け事もやらなかった。でもどこかで歯車が行き違ってしまったんでしょうね。自業自得と言う人もいるけれど、路上の仲間たちは自業自得ではない人ばかりです。自分はホームレスなどならないって誰もが別世界のように考えているでしょうけれど、僕だって自分がこうなるなんて思ってもいなかった。誰もがそうなる可能性がある社会だってことをみんなに知ってほしいです。今度こそゼロからのやり直しだと思って、部屋に入る前日に頭を坊主に剃りました。精一杯自律に向けてがんばりたい。
証言17 【60才代男性】
宮城県の沿岸部で妻と暮らしていたんだが、あの震災で家も妻も流されて、それから人生が一変しちゃった。義援金は生活費のために使い果たした。酒もタバコもギャンブルもやらないんだよ。わずかな年金頼りで心細かったから護岸工事に一年半出かけたら、役所から仮設に住む権利がなくなったと言われて、やむなく仙台に仕事を求めて来たんだ。ハローワークに行っても年齢が年齢だから、仕事が見つからなくてね。駅で声をかけられた人から寮付きの仕事があると言われているけど、大丈夫だろうか。
証言16 【40才代男性】
駅前で声をかけられて震災復興の解体の仕事をしたんだけれど、寮に入って一ヶ月がんばって、給料明細を見たら、1,000円だった。一日1,000円じゃないよ。一ヶ月の給料が1,000円だよ。寮費や食費なんかのいろんな名目で金が引かれていたけれど、どうにも我慢できなくて、このままいても働き損だと思って逃げ出して来た。
証言15 【50才代男性】
震災関連の仕事を探していたら除染の仕事が見つかって福島に行きました。誰も住んでいない地域に入って仕事をしていたけれど、腰を悪くして、仕事に行けなくなり、寮で療養していたら、寮費と食費が加算されて給料より多くなってしまって。仕事に来て借金をこしらえるなんて思ってもみなかった。すぐに辞めて仙台に来ようと思ったけれど、放射線の被爆量をクリアしないとその地区から出れないということで、足止めを食らってね。借金がその分増えてしまった。
証言14 【50才代男性】
宮城県内で嫁と嫁の両親と一緒に暮らしていました。震災で家も職場も失って家族で仮設住宅に入ったんだけれど、自分は婿養子だから肩身が狭くてね。前は広い屋敷だったからなんとかなったけれど、狭い仮設は息苦しくて。収入もないから、仙台で仕事に就いて仕送りをするつもりで来たんだけれど、住所がないと難しいよね。
証言13 【30才代男性】
前は家族と一緒に住んでいた。震災で家が流されて、仮設に入ったけれど、家族との折り合いが悪くなって、仮設を飛び出してきたんだ。障害年金をもらっているから、お金を貯めて家を買いたい。
証言12 【60才代男性】
東北で生まれ育って、東京の大学を卒業してそりゃあ一生懸命に働きました。仕事の責任を任せてもらってこれからだと言う時に、一人暮らしの母親が病気で倒れまして。泣く泣く仕事を辞めて実家に帰り、母親の看病と看取りをしました。そのあとは日雇いの仕事しか見つからずに、何とかやってきたけれど、生活が立ち行かなくなってホームレスになってしまいました。調べたら年金があと11ヶ月で満期ということなので、夜まわりグループさんに相談して、アパート入居が決まりました。足りない年金を生活保護費で支払って満期になったら、年金で生活できるようになります。
証言11 【60才代男性】
この(2012年)10月16日で、現在のアパートに入居させていただいてから、まる4年になります。2008年7月からホームレスになり、ダイエー前の地下で寝起きする生活を続けていました。夜になると、多くの同様の人達が集まり、何の目的も希望もない日々を送っていました。その先輩の仲間に教えられ、五橋公園でのカレーの炊きだし、福祉プラザでの食事会、又、当時は榴ヶ岡公園内にあった施設で行われていたシャワー、洗濯にも参加させていただいておりました。そのような状況の中で2008年10月16日、NPOプラザ前で、声をかけて下さり、その場から現在のアパートに連れてきていただき、当日から今日現在迄、住まわせてもらっています。すぐ生活保護の申請手続きをやっていただき、受給も決定して、ホームレス生活から脱出いたしました。現在69歳(入居時は65歳)と高齢のため、あの時、声をかけていただいていなかったら、どうなっていたのだろうと、背筋の凍る思いが致します。当時は絶望感に打ちのめされてもいましたから…。入居後は、生活保護に支えられ、やっと人間としての生活を取り戻し、精神面も落ちつきました。時折は、仙台夜まわりグループのボランティア活動にも参加させていただきながら、自立に向け、公営住宅の応募を続けています。残念ながら3年余り、未だ当選できませんが…。
証言10 【60才代男性】
自分は、小学校も卒業していません。小さい頃から父親に連れられて一緒に山の中で炭焼きをしていたから、学校に行けなかった。今も字も読めないし書けないから、人に頼んで字を読んでもらったり書いてもらってたりして生活して来ました。そのたびにお礼にお金を渡したから、大分損をしたのかもしれない。部屋に入れてもらってほっとしている。これからの目標は字を読んだり書いたりできるようになりたい。
証言9 【50才代男性】
誰だって自分で稼いで誰にも迷惑かけずに生活したいです。自分もこれまで一生懸命に働いて来ました。でも自分ひとりの力じゃどうにもならないこともあります。ずっと勤めて来た会社が業務縮小で一人解雇され、二人解雇され、いつ自分の番が来るか、気が気でなかったです。会社を縮小して移転することが決まった矢先に「辞めてくれ」と社長に言われたときは目の前が真っ暗になりました。昨年末(2010年)のことでした。家賃が払えないと泣きついて、なんとか今年(2011年)2月一杯までは事務所で寝泊まりしていいと言われたので、その間に必死で就職先を探したけれど、見つからず、そのうちに事務所にもいられなくなって、社用車で寝るようになりました。駐車場の周囲に民家があるので夜中はエンジンをかけっぱなしにはできません。寒くてもう我慢ができなくなったらエンジンをかけて暖房をつけて、しばらくしてまたエンジンを切っての繰り返しです。「ホームレスは働く気がない」と言う人もいるけれど、一度ハローワークに行ってどういう状態だかを見てほしいと思う。
証言8 【50才代男性】
最近、カッターで手首を切りました。生きるのが嫌になって。公園で。けれど、血を見て怖くなってコンビニの電話から110番した。傷は浅くて、病院に行くほどでもないと言われて。でも、なかかな血が止まらなくてつらかった。夜眠れなくて、どうしようもない。小さな頃から厳格な父が怖くて、兄弟は皆それなりのところに勤めていい地位についているのに自分だけが落ちこぼれで。そんなプレッシャーから逃げ出したくて若い頃から全国を放浪してきた。自分が弱かったからなのかなあ。
証言7 【60才代男性】
若い頃から一生懸命にに働いて来た。厚生年金も受けている。でも妻が認知症気味になって、毎日殴られたり蹴られたりして体が痣だらけになった。自分の年金手帳も金も全部妻がどこかに隠してしまった。自分の年金が幾ら出ているのかさえわからない。「お前なんかろくでなしだ」と罵られ、思わず家を出て来てしまった。今は仙台で路上生活をしている。役所に相談に行ったら「家に帰れ」と言われた。家に帰ったら同じことの繰り返しだろう。どうしていいかわからない。
証言6 【50才代男性】
自分は中学卒業をして、生まれた町で運送関係の仕事をずっと続けて来た。普通二種の免許まで取ってタクシーの運転手までしたくらい。でも小さな町では稼ぎにならなくて、思い切って東京に行った。ところが住所がないもんで東京では仕事が見つからなかった。時々日雇いの仕事が入る以外は、恥ずかしいけれど路上生活をしていた。その間、東京の福祉の助けで支援センターに入居したり、アパートに入ったりしたけれど、長続きはしなかった。ひとりぼっちの辛さや先行きどうなるかが不安だったし、人付き合いが苦手で酒の量が増えてね。いつの間にか飲まずにいられなくなってしまった。飲むのは主にウイスキーや焼酎。アルコール度数が高くて少量でも酔えるやつ。自分でも飲んだらやめられないことはよくわかっている。これじゃあ自分はだめになってしまうと思って、東京で医者にかかったんだ。福祉でアパートにも入ったことがある。でも、そこでも人間関係や孤独に耐えられなくなって、故郷に戻ろうと思って東京から歩いて実家の宮城県に戻ったけれど、やっぱり何十年って不義理していたからいられなくて。それで仙台に来て、路上生活をしていたってわけ。寒くてひもじくて、そのうち右手の指が固まったみたいに麻痺してきて、字も書けなくなってきて、夜まわりさんに相談して 部屋に入ることができた。これが最後だと思って、アルコールを断とうと思う。手の指も元に戻ればいいなあ。落ち着いたら母親とも仲直りしたいんだ。
証言5 【60才代男性】
中学を卒業して、地元の北海道で左官の丁稚に出ました。兄弟が多くて飯が食えなくて上の学校に行くなんて考えられなかった。15歳でしょう、どやされたり殴られたりで修行がつらくて。給料だってほどんどもらえなかった。でも寝る場所があって飯が食えるだけ有り難いって思っていた。でも、あまりに親方がきつくて3年くらいで耐えきれなくなって、東京に逃げるように行ったんだ。そしたら上野駅で人夫出しに声をかけられて、それからずっと飯場生活をしてきた。現場の穴掘り作業だよ。東京の地下鉄の穴堀はほとんどやったよ。でも年をとるとどこからも声がかからなくなって、横浜で路上生活をするようになった。今から4年前、鶴見で声をかけられて、部屋に入れてくれるって言うからついて行ったらそれが酷くてね。部屋に何人も入れられて、食事も粗末だったから、これじゃあやっていけないと思って、神奈川から北に向かった。仙台まで来て公園のベンチで寝泊まりしていたら、炊き出しっていうのがあると聞いて、それで夜まわりグループと知り合った。右目が見えにくくてね、長年の現場仕事で体もきついし、何とか元気になって仕事をしたいと思う。
証言4 【50才代男性】
これまで本当に一生懸命働いて来たんです。詳しいことはもういいじゃないですか。そう、調理関係、居酒屋、運送会社が長いかな。でも40歳代の時に無理がたたって脊椎の骨が歪んで神経を圧迫するようになってね、医者は、生まれつきの骨の異常で、長年仕事で酷使したからそうなったと言われた。運送の積み降ろしって半端じゃないから。首や腰に来るからね。脊椎には曲がった骨を矯正するセラミックが今も入っている。でも働かなきゃ食って行けないから車上生活をしながら警備会社で働いた。立ちっぱなしの仕事は体にきつくて、仕事が終わって寝るのは車の狭い運転席で、やがて車検も切れて、車を処分せざるを得なかった。それまで蓄えた金でネットカフェで過ごしたけれど、金も尽きて、どうしようもなくなって駅周辺で路上生活をしていた。仙台夜まわりグループの活動を知って、何とか住まいと体の治療をしたいとお願いしたんだ。生活のために借りた借金もあるし、何とかそれも解決していきたいと思う。
証言3 【40才代男性】
学校ではずっといじめられていた。勉強ができなくてね。「バカだバカだ」って。学校は嫌いだった。これまでたくさん仕事をしたけれど、みんな解雇された。自分で辞めようと思ったことはなかったけれど、期間が終わったとか仕事の能力がないという理由ばかりだった。10回では収まりきれないくらい派遣切り・雇用止めにあった。寮付きの仕事ばかりだったから、仕事を失うと住まいもなくなってしまうので、その度に必死に次の仕事を探して来た。これまではそれで何とかやってきたけれど、二三年前から全く仕事がみつからずに、どうしようもなくなってしまった。もう死んでしまおうと思って、死ぬ前に津軽海峡と弘前城を見ようと思い、手持ちで青森に行った。金がなくなったから仙台で死のうと青森から仙台に歩いてやってきた。夜まわりグループの炊き出しで相談して、部屋に入る事ができた。足を痛めているので治療をして、今度はちゃんと部屋を借りて、安定性のある仕事をしようと思うようになってきている。
証言2 【60才代男性】
洞穴で暮すってどんな気持ちかわかる?場所は言えないけど何年も川沿いの洞穴で暮していたんだ。冬なんて凍えそうに寒かった。足先がジンジンしてね。
俺は中学を卒業して、仙台に来たんだ。仕事は好きだったよ。鉄筋関係の仕事でね。鉄筋工で40年以上働いた。でも、60才の時にもういらないって、突然会社を解雇された。その後必死で仕事を探したけれど、年を聞かれたらみんな断られた。洞穴に人がいるって聞いて夜まわりグループの人が探し当ててくれてね。ちゃんと住所を設定したら年金が出るってことがわかって、一緒に手続きをしてもらった。厚生年金とか国民年金とか手続きも仕組みもわからないんだから、そんな人たち結構いると思うんだ。年金の掛け金を取るだけじゃなくて支給することもわかりやすく教えてほしいと思う。
証言1 【30才代男性】
生まれた環境を言い訳にしてはいけないと思っている。でも、父も母もずっと生活のために懸命に働いて、だから僕たち子どものことには放りっぱなしだった。家族でどこかに遊びにいくなんて一度もなかった。だけど、それは仕方のないことだと思っている。生きるには稼がなくちゃいけないから。学校を卒業して親元を離れて一所懸命働いて来たけれど同居していた兄弟が病気になってそれを支えるために派遣・派遣を続けて来た。でも職場での人間関係とかいろんなことで疲れてしまって。持ち金をもって死のうと思って電車に乗った。東北は初めてだったけれど青森駅に着いて自殺しようと川に飛び込んだ。でも凍えるように寒くて。死ねない自分が情けなくて切なくて。仙台駅に着いたのはどうしてなのか自分でもわからない。公園で寒さを凌いで、このまま餓死したらいいと思っていたら仙台夜まわりグループの夜まわり活動に出会った。可能性はたくさんあるからできるだけのことをしてから死ねばいいって言われて、死のうと思って100円ショップで買った出刃包丁を夜まわりさんに預けた。やり直しができるなら、やるだけやってみようと今では思うようになっている。生きることって何が楽しいのかが、小さい頃から未だにわからない。これから生きる意味を見つけたい。